【アート解説】『分かる』とは何か?【歴史の重要性】

アート解説

【今回の難易度 ★★★☆☆】

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アート解説を書くにあたり、ある物事について全く知らない人に対してどのようにそれを説明したらよいかという「説明の方法」を考えた結果、予め解いておかねばならない誤解に直面した。

誤解は教える側と教わる側の双方にある。

・教える側の誤解
分からない人がどのような誤解の上に立って我々の言葉を理解しようとしているかを分かっていない。
その結果、一方的に知識や思考や、パターン化された思考方法を陳述することで伝わると考えてしまう。

・教わる側の誤解
「教える側は正しい事を知っている」と思い、彼らの言葉を盲信してしまう。
「分かる人」のように見える人が実際には「知識を使って思考しているだけの人」である事を知らない。
その結果、知識自体や「分かってそうな人」の思考の結果を覚えようとしてしまう。

これらが原因で、

教わる人は「分かりやすい解説」を求めてはそれを容易く信じ、

教える人は「安直にならないで」という啓蒙ばかりしている。

これは近年、ファスト教養と呼ばれている。

意見とファスト教養の誕生

「分かっているように見える人」は意見を述べる。
ただし意見=知識ではない。

彼らは知識や経験を材料として使い、思考している。この時の思考の方法は概ね、ある複数の事象(知識や経験)のあいだに因果関係を見出す行為と言ってよい。

思考すると、「私はこの二つの事柄の間にこのような共通点を見つけた」とか「この複数の出来事は、ある共通の原因によって起きているのではないか。その原因とはこうである」のような意見が生まれる。

以上の通り、思考とは「意見が生み出されるまでの過程」であり、意見とは「思考の末に生まれる結果」である。

思考は、意識と無意識が複雑に絡み合っているため、その方法や過程の全てを説明することはできない。しかし意見は、意識的に述べられるものである。ゆえに教わる人は、結果である意見のみを聞くこととなる。思考という過程を知らぬまま、他者の結果だけを覚えてしまう。

これがファスト教養の誕生である。

しかし本来大切な事とは、仮に正しいと定める複数の事柄を持った時に、思考という過程が生まれるということである。

物事を分かろうとするならば「思考という過程」を目的とすべきであるが、ファスト教養は「他者の意見という結果」を目的としてしまう。言い換えれば、「知る」ことによって「分かる」ことは出来ない。知ったことを材料として「考える」ことによって「分かる」ことが出来るのである。

 

「分かる」方法

このように、分かっているように見える者たちは実際には、何か正しいことを知っているのではない。
彼らは堂々と、自身の考えた言葉を述べているのである。(人によっては、単なる請け売りを喋っていることもある。)

そして日々、考え続けてもいるし、考えるほどに自分が何を分かっていないかが詳細に分かるし、ゆえに情報収集を怠らず、より膨大な物事を考え続けている。

では、彼らはどのような知識を得たうえで、どのように考えて、自身の意見を生み出すのか?
彼らが知っている事柄には、実はあまり統一感はない。
とは言え、彼らの多くが大抵は知っていることと言えばまず歴史である。
それはなぜか。

歴史的事実とは、思考の材料となる知識であり、

そこから見いだされる歴史とは、人間の分かる時の方法である「因果関係」そのものであり、分かるという行為が具現化されたものだからだ。

歴史は必ずしも正しいわけではない。

しかし、大抵の歴史は、(恐らく極めて明晰かつ博識であった)いつかの誰かが世界を分かった結果である。
歴史を作ったその人が、ある複数の現象(歴史的事実)を並べたうえでそれらに因果関係を施した結果が、歴史である。

歴史を学ぶことは、分かるという行為の方法を練習し、体得しようとする最も実践的な試みなのである。

 

分からないのは誰の責任?

ファスト教養にすがってしまう人々は、「分かる」とはどういう状態であるかを知らない。
これは本人の責任ではない。
彼らに教えた教育者の責任である。
教育者が、彼らの誤解を解けず、意見を押し付け続けた結果である。
しかし教育者に全責任を押し付けることは出来ない。
教育者もまた、そのような誤解を解くように等と教わっておらず、自身の誤解もまた解かれていないからである。
となると、責任は教育者を教育した者にあると言えるが、その者にもまた誤解を解いてくれる人がいなかったかもしれない。
するとこれは誰の責任であるか?
僕にそれは解らないが、少なくとも「分からないのは自己責任」などとは口が裂けても言えない。

我々は誰も責めることが出来ない。

運良くより深く物事を分かることができた者に、これを正確に伝える責任があるだけかもしれない。

 

まとめ

・教わる者は、分かるという状態が、分からないことが増えるという状態=探求の状態に入ることであると理解し、学び続ける覚悟を決める必要がある。

・教える者は、分からない人の「分かる人は正しい事を知っている人である」という誤解を解いた上で、「知識」と「思考の方法論」を別物として伝えねばならない。何よりも、自身の思考の結果=意見の押し付けにならないように最大の注意を払わねばならない。

・我々は物事を分かる時、

1.事実を知る(本を読んだり話を聞いたりして知識を得たり、自身の知覚、経験からこの世界を知ること)

2.それら事実のあいだに因果関係を見出す

ことによって理解している。それを体現したものが「歴史」や「批評」であるから、これらを学ぶことには深い意義がある。

・だが全ての「歴史」も「批評」も所詮はどこかの誰かの思考がうみだした一つの意見に過ぎず、それが絶対に正しいなどという保証はなく、誰もが反論可能であるし、日々塗り替えられている。

 

ゆえにこの場において述べられている事柄も所詮は僕の個人的な知覚と推論から成立しているものであり、正しいという保証は全くない。

しかし根幹にある思想はそれなりに揺るぎないものであり、そこから出てきた自分の言葉を僕はかなり信頼しており、ある程度自信を持って皆さんに向けて書いている。そして、批判も常時受け付けており、僕はむしろその批判が聞きたくてこれを書いている。

的確な批判があり、よりよい「分かる」方法について提案されることを望んでいる。

 

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