【あおいうに・長谷川維雄 二人展】転生したらカルト2世だった件 ~真のお父様のことなんかぜんぜん好きじゃないんだからねっ!!~

展覧会情報

あおいうにと長谷川維雄、異色の二人展が2023年3月4日~3月12日に銀座の美術紫水で開催。企画は美術紫水代表のMitsuki。

水野幸司氏による展評を以下に掲載します。


 

『転生したらカルト2世だった件 ~真のお父様のことなんかぜんぜん好きじゃないんだからねっ!!~』について

水野幸司

2022年7月8日、奈良県大和西大寺駅北口付近にて、演説中に内閣総理大臣の安倍晋三が演
説中に銃撃され死亡した事件があった。このことは誰の記憶にも新しいことだろう。
安倍晋三暗殺事件は日本に大きな衝撃を与えると同時に、多くの問題を浮き彫りにした。今まで
陰謀論のように語られていた新興宗教と自民党の繋がり。そしてそのことによって自民党が戦後
日本民主主義をいかに破壊してきたのか。その事実が明らかになった。
本展のタイトルは「転生したらカルト2世だった件〜真(まこと)のお父様のことなんか全然好きじゃ
ないんだからねっ!!〜」というものである。しかし出展作家のあおいうには2世であるとしても長谷
川維雄は2世ではない(いうまでもなく転生していない)。すなわち、本展は宗教2世からの視点で
のみ構成されたものだけではない。
まず会場に入ると、天井から十字架のようなものが倒れたツボを支えにして吊り下げられている
ことに目がいく。十字架には絵がかけられており、戦後新興宗教にまつわる人物の肖像が描か
れている。一体これは何か。ということから展示が始まる仕掛けになっている。そのことに応える
ように向かい合うかたちで映し出されている長谷川の「Quo Vadis,nostra,damn」と題された映
像作品がある。この作品では男が街中を先ほどの真ん中から吊り下げられていた十字架のよう
なものを掲げながら歩く様子が映されている。その十字架らしきものはゴムがついていて、そこに
は花束が装填されている。なるほどこれはパチンコだったのかということに気づく。そしてゴムが
引かれたパチンコを暴発しないように運び続ける。しかし歩いている拍子についうっかりというべ
きか、限界が来てというべきか、充填された花束が打ち上げられ道に散乱する。都会の人混みの
中での異様な光景。この作品における行為そのものにはある種のシュールさやユーモアがある
が、同時にこれまでに起こってきたテロ事件や、象徴的な出来事の記憶やイメージを誘発する。
例に出すまでもなく今回の安倍晋三元総理大臣暗殺事件にまつわる出来事─発砲と国葬におけ
る献花─もフラッシュバックのように引き出され重ねられる。
長谷川はこの映像作品の中でいかなる政治的態度を明確に表明するわけでもなく、ただひたす
ら十字架を背負いどこかに向かい歩き続ける姿だけがある。
そこに映る姿は本人の言葉から考えれば、「新興宗教の問題にもその後の政治の問題にも距離
を取り、しかしそのことが翻ってまた宗教2世などの社会的弱者を抑圧してしまうというジレンマを
背負った人間」の姿と言えるかもしれない。
次に隣の壁に飾られているあおいうにの絵画作品群に目を向ければ、そこに描かれているのは
一見名画風(マティスやモランディ)の静物画と統一教会のシンボルマークや信者むけの張り紙の
絵、そして安倍晋三元総理大臣と山上被告の逮捕後の絵である。
いずれの作品もいうまでもなく、統一教会の信者からの視線から描かれている。反復して現れる
モチーフとして壺と缶を挙げることができるが、しかし壺は壺という形態以上のもの、すなわちそ
れが一体なんのツボなのかという「しるし」が描かれてはいない。無論今回の展示のテーマに繋
げて推察すれば統一教会の壺であると言うことはおおよそ見当がつくが、もしそうであるならばな
ぜそのツボの特徴を描かなかったのかはわからない。またなぜマティスやモランディのパロディ
で描いたのかということも宙吊りにされている。一方で缶は安倍晋三元総理大臣の描かれている
作品の中ではかろうじて文字らしきものが書かれていることはわかるにしてもその文字が可読性
を持つかというと難しい。缶に関して言えば絵画のタイトルを参照するとわかる仕組みになってい
る。「メッコール」というものがその飲料の名前である。一般的には目にしない飲料であるが、統
一教会系の企業が製造している飲料である。安倍晋三元総理大臣がそれを飲んで、くつろぎ居
眠りをしている絵のタイトルは「チル晋三〜くつろいだ関係の果てに〜」という実に皮肉めいたも
のである。安倍晋三元総理大臣がメッコールを飲みチルしていることと統一教会との癒着を掛け
合わせ、散る晋三になぞっている。
「くつろいだ関係の果てに」ということを掘り下げて考えてみれば、自民党政権は政権を確保する
ために、統一教会は権力を握り超法規的な保護をしてもらうために、互いに歩み寄り癒着した共
犯関係を持っていて、さらに言えば新興宗教に入信することが個人的な出来事だけに起因する
ものではなく社会的な負の要因が絡まってくるとすれば、弱者を切り捨て見捨てるような政権と新
興宗教はまさにくつろぎの関係にあったと言える。もはやこれは人による政治的思想の差異で片
付けられる問題ではなく、民主主義の前提を破壊した事実として、言い換えれば戦後建設し直し
た日本という国家と国民を繋ぐ約束事が反故にされ、もはや信用の基盤を失ってしまったという
致命的な問題として考えるべきである。もはや今の制度のままでは到底民主主義は機能しえな
いだろう。本展に批判的なポイントを述べるとするならばこのことに対しては積極的な問いの提示
は示されなかったことにある。
ただ一方でこの批判は本展の批判としては的を外していると考えることもできる。それはあおいう
にのエッセイ漫画、幻覚ドローイングなどの作品群、そしてnoteなどに投稿されている文章から
わかる通り、あおいうにが宗教2世としてこれまでおかれていた境遇を、独白めいた言葉と絵に
よって私たちが目を背けるものができないものとして克明に、そして様々な手法を用いて表現さ
れたものが展示されているからである。これらはこれまで抑圧され隠蔽され無視され相手にされ
てこなかった言葉であった。それをまず真摯に受け取ることなしに、次の議論には進めないだろ
う。再び長谷川の作品に戻り、言葉を選ぶならば「Quo Vadis(どこに行くのですか?)」という言
葉は本展に訪れた私たち自身にこそむけられている言葉である。長谷川は先に述べたことに重
ねていうならば、それを背負い、抱え歩くことによって応答した。あるいはこれまでの話を踏まえる
ならば、いまの私たち自身の鏡像としての姿だったのかもしれない。繰り返し私は問う。戦後民主
主義を成立させていた基底面がすでに完膚なきまでに破壊されていたことが明白のものとなった
今日において私たちはどこに向かうべきなのか。本展はこの問いの嚆矢となる展示であった。

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